細胞が食べられるときに炎症反応が起つまりとSOSを出す。

うつ診断法

周囲の理解は薄かったようです。
更年期障害が病気としての市民権を得たのはごく最近のことで、当時はじっと我慢してやりすごすものとみなされていました。だれも、胃潰瘍やガンになったときのように心配したり、休養するように勧めてくれません。周囲の無理解に孤独感を強くしました。
しかし、それ以上につらかったのは、身体に起きている事態は深刻で、我慢してやりすごせるようなものではなかったのに、適切な治療をうける手だてがわからなかったことです。ひとり苦しみに耐えなければなりませんでした。とくに範子さんが体験した当時は、情報も極端に少なかっただけに、苦しみや不安、とまどいははかりしれないものがあったに違いありません。

「私はなんてだめなんだろう」
もともと国立病院で看護師として勤務していた範子さんが、私立の男子校の保健婦として転職したのは32歳カウンセラーの役目も果し精神的な悩みにも相談にのり、のとき。男子生徒には範子さんは母親的な存在で、ていましたしかし、具合が悪くなってからは生徒の話を聞くのもうっとうしい。生徒が相談に来ると「そんなの我慢しなきゃだめ」と冷たくあしらって、薬を渡して追い返すことが度重なりました。人が変わったようになった範子さんに面食らったのか、先生、どうしたのと生徒たちが顔をのぞきこむこともしばしば。先生たちからもどうしたの?と言われることが多くなっていきましたというのも、申し送り事項を相手に伝えているにもかかわらず、伝えたかどうかわからなくなり、相手に再度確認してしまうことが度重なる。

治療の考え方子宮内膜症

仕事上その場で決断して返事をしなければならないことが多いのに、決断できず、すぐに対応できないなど、今までにない仕事ぶりに教師たちもとまどいを覚えたのでしょう。
こう仕事がてきぱきできなくなってはみんなに迷惑をかけるばかり。職場にいてはいけないんじゃないかしら。考え込む範子さんの顔からイキイキとした表情が消えていきました。暗く沈んでいる範子さんがウツ状態だと気づいたのは、週1回登校する校医でした。浅沼さん、死にたくなることはないですか。

ウツ状態がどの程度深刻か、確認したのでしょう。
「とんでもない90歳近い母がいますから、母より先に死ぬわけにはいきません」
その答えを聞いて、校医は少し安心したような表情をみせて、軽い安定剤を渡してくれました。
むと少し眠れるようになって、その分だけ身体が少し楽に。それでも精神科の薬には抵抗があり、の悪いときにだけ飲むようにしました。
安定剤を飲よほど調子症状がいちばんひどかったのは5152歳の頃。友人がガンで亡くなったショックも気分を落ち込ませた原因のひとつです。また、職場では学校改革をめぐって職員同士派閥の対立が表面化し、人間関係がギスギスしていたのもストレスになっていました。学校へ行くのがつらくてしょうがない。それでも無遅刻無欠勤できたのだから、仕事は決して休むまいと、往復タクシーを使ってでも出勤したところに範子さんの生真面目さがのぞきます。平日、かなり無理をしていたその反動なのか、週末になるときまって熱が出て下痢が続きました。
自宅で横になっていると、この先どうなっていくのだろうと不安でいっぱい。食欲もなく食事をとれません職場以外では人と会うのが怖く、アパートで住人とすれ違っただけでドキドキしました。

 

細胞の働きが抑制されなく

初めての経験でした無理をおして出勤していたのがよくなかったのでしょう。その年の夏休みは休みに入ったとたんに床についてしまいました安定剤を1日3回飲んでひたすら眠り、水分は牛乳で補給し、あとはお腹がすいたときに冷蔵庫にあるものを少し口にする程度。だれにも会いたくない、なにもしたくない、だいいち体がいうことをききませんでした。
最悪でした。
それでも、夏休み中休養を十分にとったのが奏功したのか、9月に学校が始まる頃にはだいぶ元気になってました範子さんにとって救いだったのは、校長が理解を示してくれたことでした20年間無遅刻無欠勤で勤務し仕事はきちんとこなし、滞ることがなかっただけに、仕事を怠けているとはみなしませんでした。範子さんが大変申し訳ないのですが、どうしても具合が悪いときには保健室でベッドによりかかって、座ってもいいでしょうかと申し出ると、快く許可し、無理しないように
と気遣いをみせてくれましたそして、もうひとり数年後に範子さんの伴侶となる数学の教師が、見かねて仕事を手伝ってくれたり、不安や眠れない辛さを聞いてくれたのが大きな救いでした。
また範子さんは少しでも気分のいいときは、美術館へ行くなど外出をつとめてこころがけたのもよかったようです。といっても、ひとりではとても出掛ける気力はなく、友人に連れだしてもらうという状態でしたが。
「自分はウツ病なのかしらと疑っていました。でも本当のウツ病とまでは思えなくて、更年期なのかなと漠然と考えていました」
そんな矢先、退職を決意させる出来事が起きました。春の身体検査の準備に入ったときです。養護教諭の範子さんが先頭にたって指揮をしなければならない立場です。ところが、もう20年近く毎年のように繰り返してきた仕事なのに、いつものように段取りよくてきぱきと進められません。
身長、体重、レントゲン、聴診、検査場に振り分け、係の生徒をそれぞれの持ち場に配置してはずなのに、なぜか全体をきちんと把握できているという自信をもてないのです。
治療法を選ぶうえ

老化が進むというもの。

ようやくなんとかその日を終えたときには身体はくたくた、精神的には「私はなんてだめなんだろう」とすっかり自信喪失していました「自分は経験もありベテランにもかかわらず、先頭に立ってやらなければならない仕事の責任が今までのように果たせないのだから、もう職場にはいられないと思いました」
の項目ごとに会場を決め、外から来校する6人のドクターを各会細かい指示をしていくのですが、慣れた仕事のこの出来事を機に、それまでがんばり続けてきた糸がプツンと切れてしまったのか、範子さんはその後、文部科学省が関係した大きな仕事を断ってしまいます。
体調の悪さはとうてい理解してもらいようもなく、ただ、無責任でわがままな教諭としかみなされていないにちがいないと思うと、一刻も早く職場を去るしかないと決意を新たにしていました「今振り返ると『あれはなんだったのだろう』と思うのですが、あのときは身体も頭もまったくいうことをきいてくれないのですから、どうしようもありませんでしたね」
「よくなるものがあるのなら何でもやりたい」
範子さんが回復のきっかけをつかんだのは、春の身体検査から2か月後、親しい友人のアドバイスでした「漢方薬で更年期障害の治療をしている先生がいるから、一度診てもらったらどうお」
紹介されたのは東京医科歯科大学産婦人科助教授だった小山嵩夫医師です。
当時、小山医師は大学の付属病院で更年期障害の患者さんを一手に引き受けて、治療にあたっていました(現在は東京銀座で小山嵩夫クリニックを開業)。
小山医師が更年期医療に本格的に取り組むようになったのは83年。研究発表でたびたび米国にでかけていったところ、米国の医学者から「日本も高齢化社会に向かって老齢化の分野にも力をいれなければ」と助言されたのがきっかけでした。更年期以降の女性が元気で生きるための医学、いわゆるメノポーズの領域の医学にっいては当時から米国では多額の研究予算が出ているとも聞かされていました。
いっぽう日本では、更年期医療の分野は学問的にもほとんど研究が進まず、臨床的にも対症療法や男女混合ホルモンの注射、あるいは漢方薬を使うといった旧態依然とした治療が行われていました小山医師はまだ日本では未開拓分野のホルモン補充療法略してHRTの試みを始めていました。

薬をのまざるを得ない状況に追いやられるわけです。

いまでこそHRTについて知識を持つ更年期女性は多くなりましたが、その頃はほとんど知られていません。また大学病院の外来のあわただしい診療時間内にHRTについて説明するのは限界がありました。そのため、患者さんの中にはHRTが効果がありそうだと判断して試みたものの、出血などの副作用に驚いて、12回通院したあとはばったり姿を見せないといったことが続いていましたHRTについてはまだまだ臨床例が少なく、試行錯誤が続くといった状況のなか、範子さんは小山医師の診察を受けました。診察前、範子さんはあらかじめ渡された「簡略更年期指数SMI参照に記入してみると100点満点で、精密検査と長期間の治療が必要との評価でした漢方薬などの治療を始めて1か月余りが過ぎたころ、小山医師が範子さんに勧めたのがHRTでした「浅沼さん、いちどホルモン補充療法を試してみませんか。血液検査でもエストロゲンはゼロに近い状態です。し、試してみる価値はあると思いますよ」
子宮はすでに摘出していたので、子宮体ガンの心配もないと言われました「ちょうどアメリカに住んでいた友人がHRTを知っていて、アメリカでは受けている女性が多いという話を聞かせてくれて、やってみようかなと決心がついたのです。
それによくなるものがあるのなら何でもやりたいという心境でした」
と範子さんは打ち明けます。
職場にもどって校医にHRTの話をすると、60代半ばの内科医師は一言告げましたホルモンは怖いよ
しかし、範子さんは元気になれるのだったら、ところです。たとえ寿命が縮んだとしても試してみたいというのが正直な範子さんの場合、HRTを始めて4週目くらいから効き目が現れ始めました。肩凝りがうそのように消え手足の冷えが改善されて、体が軽くなっていくような感じがしました。よく眠れるようになり、食欲も出てきたせいか、体力が徐々についてきたのでしょう。朝起きて仕事にでかけるのがおっくうじゃないと感じるのは何年ぶりかの気分でした。身体症状もみるみる回復しました。ただ、ひどい物忘れや一度失った仕事への自信を取り戻すには、まだしばらく時間が必要でした。

治療法を組み合わせることも可能です

細胞が食べられるときに炎症反応が起つまりとSOSを出す。その後、範子さんは更年期の嵐の直中にいたときに支えとなってくれた同僚から、結婚を申し込まれたのを機会に職場を去り、まもなく結婚しました。範子さんは56歳の初婚、夫となった真一さんは凄を亡くして5年たっていました。
ところで、範子さんは症状が改善されたいまもHRTを続けているといいます。ずっと続けているのはアルツハイマーの予防が主な目的です。最近、学生時代の友人たちに会って驚いたのは、飲んでいる薬の多さ。降圧剤やコレステロールを下げる薬やら。私はエストロゲンだけでとても元気に過ごしていることを知って、改めてHRTに出会ってよかったと思いました。
健康維持に加えて、半年に1回血液や骨量検査、乳ガン検診が義務づけられているので、行き届いた健康管理ができていて安心です。小柄でふっくらとした肉付きの範子さんは、つらく厳しかった更年期の体験を語りながらも、取材の2時間あまり終始穏やかな表情を崩すことはありませんでした。そんな様子から、50歳を過ぎて良き伴侶に恵まれた範子さんの、心身ともに安定した現在の幸せな生活がうかがわれるようでした【体験症例②】「こんなに外見にこだわると気づいた時に……」
身体的な衰えのなかでも、容色の衰えは女性にとって大きな意味を持ち、強烈な自分への否定につながりかねません。もう2度と取り戻せない若い頃の美貌とスリムな肉体。今鏡に映る身体の否定的なイメージをどう受け止め、これから先をどのように肯定的に生きていったらいいのかここで紹介する石田恭子さん仮名·55歳は少なくないのではないでしょうか。


細胞が食べられるときに炎症反応が起つまりとSOSを出す。 医師による 認知症の患者さんの多く